シウマイの街「鹿沼」の原点 崎陽軒の初代社長が愛したふるさとに、さらなる賑わいを。

かぬまシウマイの原点 バックストーリー

横浜の名物駅弁として、またおみやげとして日本中で愛される崎陽軒のシウマイ。
その初代社長の野並茂吉氏(旧姓:渡辺 1888年~1965年)は鹿沼市北西部の加園地区出身でした。
茂吉氏は名物のなかった横浜に今なお愛される「崎陽軒のシウマイ」を一代で築き上げ他一方で、ふるさと鹿沼への様々な慈愛に満ちた貢献を、生涯に渡り続けられました。災害や新型コロナウィルスの感染拡大など度重なる困難の続くこの時代、氏のふるさとへの思いを受け継ぎ、鹿沼に氏の愛した「シウマイ」で賑わいを創りたい。
そんな思いが、「かぬまシウマイ」と「シウマイの街 鹿沼」づくりの原点です。

鹿沼市内の飲食店では、各店独自のシウマイのみを取扱っております。崎陽軒のシウマイは、鹿沼市内の一部スーパーで常温保存の 真空パックされた商品をご購入いただけます。それ以外のお求めは崎陽軒オンラインショップをご利用下さいませ。

「シウマイ」と鹿沼 横浜といえば崎陽軒のシウマイを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。ここ鹿沼でも、横浜みやげといえば崎陽軒のシウマイが大定番、広く市民に愛されています。
株式会社崎陽軒の初代社長 野並茂吉氏は、鹿沼市北西部の加園地区出身でした。小学校に教育資金やピアノなどをご寄付いただき、関連する講演会や野並茂吉氏の自伝をもとにした「茂吉のシウマイ人生」という紙芝居も作られたりしました。小学校の修学旅行先として訪れた方もいらっしゃいます。氏は生涯、ふるさと鹿沼を慈しんでくださいました。
茂吉氏と「シウマイ」 野並茂吉氏は、鹿沼市加園地区に、父 渡辺富三、母 ミツの次男として生まれました。幼くして故郷を離れ、「都会に出て事業を起こしたい」と勤め奉公で様々な職業を経て横浜にたどり着き、駅弁の世界に出会いました。25歳の時に匿名組合 崎陽軒の支配人となり、関東大震災の苦難を乗り越え、名物のなかった横浜に「何か名物をつくろう」と冷めてもおいしい独自レシピの「シウマイ」を開発し、「横浜といえば崎陽軒のシウマイ」という今に至る事業の礎を築き上げました。
茂吉氏は故郷の訛りで「シュウマイ」を「シーマイ」と呼んでいました。当時の中国人スタッフに本場中国の発音に近いと褒められ「ほら見ろ。中国語ではシウマイと言うんだ。崎陽軒の製品はシウマイでいこう」と宣言したといいます。「シ」を隠すと「ウマイ」になるという遊び心もあったとか。
鹿沼に「シウマイ」で賑わいを。 茂吉氏の没後半世紀を超え、氏の功績と鹿沼へ貢献を知る方も少なくなって来ました。しかし、氏の愛した「シウマイ」は、時代を超えて今なお力強く受け継がれています。
翻って近年鹿沼には、2011年の震災以来、度重なる災害や新型コロナの蔓延など幾多の困難が続いてきました。地域経済の応援団たる鹿沼商工会議所として、地域経済活性化としてできることはないか?という問いの中で、ふるさとを愛した茂吉氏の思いを繋ぎ、ここ鹿沼に氏の愛した「シウマイ」で一層の賑わいを創る事業が起案されました。
シウマイ像をつくるへ